トリノ—古くて新しい街

4月末にトリノで開かれたピエモンテ州の視察ツアーに参加してきた。
見所の多い州なのに、日本に十分な情報が入っていないためか、これまであまり語られることのなかった地域である。
だが世界遺産2箇所を擁し、バローロ等高品質なワインの産地でもあり、トリュフなど美食の地でもある。
今後訪れる人も増えるに違いない。
まずはワークショップや視察の合間に歩いた、トリノの街の印象をまとめてみた。


トリノはピエモンテの州都、王宮や教会、博物館や美術館が軒を連ねる壮麗な街だ。でも私たち日本人には、冬季オピンピックの開催地だった以外に、
トリノと聞いて思い浮かぶことは、案外少ないのではないか。

トリノの聖骸布(亡くなったキリストを包んだとされる布。
キリストの顔と全身の姿が映し出されている)は、一部では有名かもしれない。
車好きにはフィアットのお膝元として知られているだろう。

では、1800年代の半ば、イタリア統一運動の発祥の地であることは?
 統一成ったその後、しばらくイタリアの首都だったことは? 
メディチ家がフィレンツェのルネッサンスに力を注いだように、
サヴォイア家がトリノを美しいバロックで作り上げたことは?

 (パラティーナ門

もともとは古代ローマの街である。
この地ではバロックの宮殿にも使われているのと同じレンガの門が、中心街に残っている。
ただしその門は、鮮やかなオレンジ色のせいか、きれいに修復されているためか、
あまり古びては見えない。

中世やルネッサンスも一部に残ってはいるものの、
こちらも周囲のバロックの建物や、車の流れの多い大通りに、少し肩身が狭そうである。
かくしてトリノの表立った顔は、スケールの大きな17-18世紀の宮殿や、
まっすぐに伸びる街路や、要所要所で街路の交差を広々と押し広げ、
真ん中に騎馬像を置いた広場となる。

「とても見所の多い歴史のある街なのに、何故観光客があまり来ないのか、それが不思議です」 と、トリノに長く住む中華レストランのオーナーは言う。
確かにこれだけの規模の街なのに、(特に日本人)観光客の姿はほとんど見かけなかった。賑やかなざわめきと共に過ぎていくのは、修学旅行なのか、イタリアの小学生たちのカラフルで小さな背中ばかりである。


 (イタリア統一後の初代国王、ヴィットリオ・エマヌエレ二世が生まれた
 カリニャーノ宮殿。
 トリノが首都であった1861年までの三年間 はここに国会が置かれた。)

でも、これこそがトリノの良さなのかもしれない。
ホテルも多く、見て回ったところはどこもきれいで利用しやすそうだった。
美味しいレストランやエノテカ(ワインバー)はもちろん、統一運動の舞台となった、
由緒あるゴージャスな雰囲気のカフェも多い。

それらは決して観光客におもねらず、旅人はトリノっ子に紛れ、ひとときの寛ぎを得る。そのようなそっけない、特別でない寛ぎの中で、しみじみと土地の空気や人々の温度を感じ取るのには、さらに一歩、こちらが踏み込まなければならないにしても。

トリノは、中世やルネッサンッスを前面に押し出すたくさんのイタリアの都市に比べたら、整然とした新しい街だ。
だがその新しさは、決してそれ以前の歴史と伝統を捨てた上に築かれているのではない。

トリノ空港を視察した折、思いがけないものを見せてもらった。
この空港は他のイタリア北部の空港に比べて雪や霧に強いのだと、
胸を張って案内してくれたスタッフは、チェックインや荷物を預ける最新システムのエリアを抜け、メンバーを戸外に誘った。ちょっと驚かせてあげましょうと。

喉が渇いていたので、飲み物でもふるまってくれればいいのにと期待していたら、
そこには一人の若者と、中年の男性が立っているだけだった。
腕には鷹がとまっている。二人は鷹匠だった。

鷹は、飛行機に巻き込まれて害を及ぼす鳥を追い払うために、特別に訓練されていると言う。
8歳の頃から鷹と遊びながら育った中年男性と、長い髪を後ろで束ね、耳にピアスをした若者は、祖先はサヴォイアの王の狩のお供をしたのかもしれない。だが今二人は、ハイパーモダンな空港に、少しの違和感もなくなじんでいた。


 (サンカルロ広場。バロックの二つの教会の間に、
 ローマ通りがまっすぐポルタ・ヌォーヴァ駅まで続く。

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