須賀敦子と歩くトリエステ 1/2

トリエステは、明るい街だった。
雨の多い季節の旅だったが、
トリエステを歩いた最初の一日は青空がのぞいていたので、
よけいそう感じたのかもしれない。
あるいは、海に突き出た埠頭が、街の遊歩道の続きのように、
のんびりと無防備に、波の間にのびていたからかもしれない。
でも、何よりも明るさを与えていたのは、
空と海に向かってシンプルに開けた、街の中心となる広場と、
周囲の建物の軽やかさだったと思う。

イタリア統一広場

イタリア統一広場

到着の日の夜、空港から乗ったタクシーの運転手は、聞かれもしないのに、
今過ぎたのが中央駅、この先はウニタ(統一)・イタリア広場、
白い宮殿はジェネラリ保険の本社で、隣は船会社、あ、さっきのは市庁舎で、
みんなオーストリア風だ、トリエステはオーストリアの街なんだ、と、
話してくれた。

街を離れる日に乗ったタクシーでも人懐っこさは同じで、
似たような説明を逆に繰り返し、名物料理を教えてくれたあと、
どこから来たのかと訪ねる。
日本だと応じると、すかさず、日本人は初めて乗せたと私たちを笑わせた。
「地球の歩き方」にも載っている街に、それはないだろうけれど、
案外本当かもしれない。

確かに、フィレンツェやローマのいたるところで見かける日本人観光客には、
一人も出会わなかった。それどころか、
思い返してみても、そもそも観光客らしい人がいなかった。

トリエステは北イタリアの東のはずれ、
アドリア海を回り込んで、スロヴェニアにくい込んだような細長い街。
国境は東と南の二面を囲んでいる。
このような立地ゆえ、古代ローマの時代から、
人や物が行き交う商都として、また防衛上重要な港町として栄えた。

小さいけれども、ローマの都市であった証の円形劇場や、
フォロ(広場)の遺跡が残っている。
そればかりか、帝国が滅びたあとの中世の城もあれば、
ゴシックの教会もある。
そして近・現代までの、周囲の国が奪い合った挙句の、

ハプスブルク家のなごりの宮殿と、イタリア統一広場、なのである。
トリエステの明るさが、海岸に近い、
歩きやすい平坦な通りや広場を覆っていたにしても、
その影は、背後の丘の城塞や、曲りくねった急な坂道をたどるまでもなく、
“オーストリア”を強調する運転手の言葉のなかに、既にある。

トリエステが私にとって、他のイタリアの街と決定的に違うのは、
須賀さんのエッセイで初めて知った、ということがある。
その印象があまりに強くて、ここだけは、
須賀敦子を胸に置いて歩くしかないと、思っていた。
この街を訪れた須賀さんが、既に自分の中にあるイメージと、
それを与えてくれた人を思いながら歩いたように。

トリエステは須賀敦子にとって、
イタリア語を学ぶために滞在し、イタリアへの扉を開いたペルージャや、
暮らしと思索の両方で根を張ったミラノや、
カトリックから「ヨーロッパ」に入った彼女が、
古代の思想と感覚に目覚めたローマなどとはまた別の、重みを持った街だった。

まだ留学の日も浅いころ、『鳥、ほとんど散文で』という題に引かれて、
サバの詩集を買って読んだことがある。

イタリア語がやさしい、とは思ったが、
それ以上なんということなく月日がたった。
ところがやがて結婚した相手は、部類のサバ好きだった。

しかし、彼は私にその偉大さの秘密をすこしも説明することなしに、
ただ、その詩集をつぎつぎとわたしてくれた。

そして、サバの名といっしょにトリエステという地名が、
私のなかで、よいワインのように熟れていった。  

(「きらめくく海のトリエステ」/『ミラノ霧の風景』所収)

須賀敦子にとってのトリエステも、 実際の出会いより先に、
詩人ウンベルト・サバによって、サバを愛した夫ペッピーノによって、
イメージが出来上がっていた街だった。

トリエステには冬、ボーラという北風が吹く。
夫はその風のことを、なぜかなつかしそうに話した。

瞬間風速何十メートルというような突風が海から吹き上げてくるので、
坂道には手すりがついていて、風の日は、吹き飛ばされないように、

それにつかまって歩くのだという。
「きみなんか、ひとたまりもない、吹っとばされるよ」

と夫はおかしそうに言った。

須賀さんを通して浮かび上がるトリエステは、
けっして華やかなウィーン風だけの街ではない。
それはサバの詩を読むと、一層はっきりとしてくる。

悲しいことも多々あって、空と
街路の美しいトリエステには、
山の通り、という坂道がある。

とばくちがユダヤの会堂で、
修道院の庭で終わっている。道の途中に小さな
聖堂があり、草地に立つと、人生のいとなみの

黒い吐息が聞こえ、そこからは、船のある海と、岬と、
市場の覆いと、群集が見える。
それから、坂の片側には、荒れはてた

墓地。ぼくの記憶にあるかぎり、
絶えて、葬式も、埋葬もない、
旧ユダヤ人墓地。そこにいるのは、
ぼくの想いにとって大切な、

苦労を重ね、商売にあけくれて、
葬られた、たましいも
顔も同じな、ぼくの先祖たち。
(「三本の道」より/『ウンベルト・サバ詩集』
須賀敦子全集第5巻所収)

「きらめく海のトリエステ」では、サバの出自について、
母がユダヤ人だったと、 短く触れているだけである。
そしてそのユダヤ人については、
この「山の道」が、かつては「絞首刑通り」と呼ばれたいた、
そんな哀しい場所に、ユダヤ人は墓地を与えられていた、 と続けるだけだ。

サバの詩の、あるフレーズが目に止まった。

トリエステのうつくしさにはとげがある。
たとえば、花をささげるには、あまり
ごつい手の、未熟で貪欲な、
碧い目の少年みたいな。
(『トリエステ』「きらめく海のトリエステ」所収)

これは、ナチの北イタリア侵攻に伴い激化したユダヤ人狩りや、
ムッソリーニが「人種法」を発令するずっと以前の作品だが、
そこにはトリエステが持つ、複雑で鋭利な哀しみのようなものがある。

トリエステには、イタリア唯一の、ナチによる強制収用所があった。
だが須賀さんは、そのことも、サバが友人たちの助けを得て、
パリやフィレンツェやローマに逃れたことも、語っていない。

日本から手配したホテルが、
須賀さんが1990年に泊まったのと同じホテルだと気づいたのは、
旅の計画もかなり進んだころだった。
私が予約したのはレジデンス部分で、レセプションや朝食ルームは共通だが、
部屋は、十字路を斜めに挟んで数件先の、まったく別の建物にあった。
それでも、私も、やはり須賀さんファンの友人二人も、
不思議なめぐりあわせを喜んだ。

トリエステは、ペッピーノが、
「いつかきっと君を連れて行く」と須賀さんに約束しながら、
それを果たせなかったいくつかの街のひとつだ。

彼が亡くなった二年後、69年の夏に、半ば仕事で訪れたときのことは、
「きらめく海のトリエステ」に記された。
二度目に訪れた90年は、最初の記憶をエッセイにまとめてから、
それほど時間のたっていない頃だろう。
「なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか」
と自問しながらの、たった一日だけの滞在だった。

この日のことは、「トリエステの坂道」となるが、
あこがれと追憶が多くの行を埋める「きらめく海のトリエステ」と違って、
こちらのエッセイでは、不安を映し出すような、夜の到着のこころもとなさや、
心の底に渦巻く問いをはぐらかすように街を歩く様子が、
まさに今のこととして、活写されている。

私たちは、このときの須賀さんの歩いた道を、
それほど忠実に辿ろうとは思っていなかった。
どう歩こうかとの相談も、ただ、
「山の道」と、サバが経営していた書店だけ行けばいいよね、 と、
あまり欲がなかった。

そもそもサバにそれほどの思い入れがあるわけではないので、
詩人が住んでいた家に行ってみても、
なんの感慨も湧かないのは、知れたことだった。
それよりも、ホテルから海までのあいだにある、城や、聖堂や、
ローマの遺跡を見たかった。

サン・ジュスト城からは、港がよく見えた。
弱い秋の日差しでは、空も海もぼんやりと煙っていて、
レンガ色の屋根の色も、遠くに行くにつれて薄くなり、
その向こうの岬は海に溶けるように細くなっていた。

城の中には、エノテカ(ワインを楽しめるレストラン)があったが、
城壁の上も、中庭も、私たち以外ほとんどひと気はなく、ひっそりとしていた。
それはすぐ近くにある教会も同じで、
翌日のサン・ジュストの祝日の準備をする人たちが、
教会のあちこちに散らばっているだけだった。

正面(後陣)のモザイクはきらびやかだけれど、最近のものだとわかる。
左のマリアと右のイエスが中世のもので、
いずれも美しかった。
私たちはお布施によってライトアップされるマリアを、
順番にコインを投じながら眺め続けた。

右の丸天井では、コインを入れる必要はなかった。
その手前の、板絵のような聖人像とあわせて、
ライティングの調整が行われていたからだ。

指図をしていた神父に、タイミングを計って訪ねてみた。
この板のような絵は何なのかと。
続けて、身廊の左右の柱に、
大きな羽根のような棕櫚の葉がくくりつけられているのは何故なのか、と。
絵は(むろんのこと)聖ジュストで、
絹布に、表からも裏からも同じに見えるように描かれている、
6-7世紀のものだよ、とのこと。

棕櫚は聖人のシンボルです。
ほら、この絵でも、キリストの左にいる聖人が棕櫚を手にしているでしょう。
神父は、注意深く見ればわかることなのに、ものを知らない旅人に、
少しも面倒がらずに、ていねいに答えてくれた。
手のひらをこう押し出しているのは、と自分の手を同じようにしながら、
災いを退けようとしているのです、と。
教会の床には、まだたくさんの棕櫚の葉が置かれていた。

 

 

3 Comments on 須賀敦子と歩くトリエステ 1/2

  1. gattina // 2012/2/29 at 15:48 // 返信

    初めまして、こんにちは。
    この春に須賀敦子さんゆかりの場所を訪ね歩く
    旅の計画をしている者です。
    トリエステのことについて
    色々調べている時にこちらの旅行記に
    めぐりあいました。
    トリエステでは、須賀敦子さんが泊まったホテルに
    宿泊されたそうですね。素敵です。
    よろしければお名前か、何かヒントを
    教えていただけると嬉しいです。
    泊まるのが難しくても
    街歩きの途中に是非お訪ねしたいと思います。
    よろしくお願いします。

  2. Takekawa // 2012/2/29 at 22:00 // 返信

    コメント、ありがとうございます。
    ホテルはサン・ジュストでした。
    ぜひ泊まってみてください。

  3. gattina // 2012/3/1 at 17:18 // 返信

    早々にお返事、ありがとうございます!
    ホテルは、サン・ジュストなんですね。
    山の道の近くかな・・・と思っていたのですが
    大ハズレでした(失笑)
    今から手配が間に合うか
    画策してみます。
    ありがとうございました。

Leave a comment

Your email address will not be published.


*


Return to Top ▲Return to Top ▲